近くの里山へ初めて行った日のこと

小学校で行われた耐寒登山の苦しくて嫌な記憶が拭えず、好んで高い山へ登ろうという気持ちにはならなかった。滝を見に行く、里山をトレッキングする、といった軽く山に触れる程度で、自然に触れたいという欲求は満たされていた。私が山に憧れるのは自生する植物に興味があったから。植物を見て家に帰って本で調べる事が好きだった。

夫は山に登るひとだった。おとなになってからは山から離れていたが、登山でのエピソードは面白いものがたくさんあった。冬山でのテントの話は壮絶。そんな経験を子供にさせた父親がすごかったのだ…。

あるとき、近くの里山を歩く番組を見て、夫が「よく歩いたんだ」と話してくれ、興味がムクムクとわいた。私の好きな湿地があるという。私は湿地が大好きだ!!!!生物の宝庫なのだ。是非、連れて行ってくれとお願いをした。夫は私の体力では遠くまでは歩けないだろうと踏んで、コースを考えてくれた。夫のザックに必要なものを全部入れ、私はデジカメとタオルだけを持って歩けばよかった。なんという軽装。

そんな夫に連れられ、近くの里山へ出かけた。さすが、人の生活圏なだけに車も入ってくる。補整はされていないけど、歩きやすい山道が続いた。しばらく歩いてようやく車も入れない山道になった。途端に空気が変わる。森がざぁざぁと鳴っていた。沢に近づくと水の音がしてくる。野鳥も鳴いていた。下を見れば図鑑でおなじみの植物がある。もちろん写真を撮った。

「疲れきる前に引き返そう。来た道を帰るのだからね、疲れてからでは遅い。だから判断は早めにしてほしい」と言われていたので、行きは割と緊張もした。それでも目的地の湿地に着いて、しばらく堪能したらまだまだ歩けるような気がして、次の湿地へ向かう事にした。その目的地は意外に遠くて、夫も「こんなに遠かったかな」と首をかしげながら進む。

ズンズン進むとトンボが増えてきた。湿地が近い。少し早足になりながら、その場に辿り着くとトンボの国だった。ここまで歩いた喜びと、湿地の風景に感激した。

帰りは知った道という事もあってか早く帰れた。「こんなに歩けるなんて思わなかった」と言われ、私も驚いたのだと言っておいた。

トレッキングは登山とは違う。別に目的地を山頂にしなくてもいいのだ。好きなコースで歩けばそれで十分楽しい。植物や動物の痕跡を探して歩くとなかなか進まない。それでも本人が楽しければそれでいい。

また山が好きになった。

小さなケーキ屋さん

近所に小さなケーキ屋さんがあった。あった、という事は今はもうない。

帰りにお店の横を通ると、いつも車が停まっていて、お店の中にもお客さんが数人いた。イベント事のある日は外で待っている人もいた。ケーキを食べるのに理由はいらないが、そうそう買って食べるものでもないので買う機会がなかった。

そんな私が初めてお店に入ったのは越してから一年経ったクリスマスだった。

外から覗いていたショーケース。その中に並べられていたのは小ぶりのケーキたち。派手な装飾は一切されておらず、馴染みのある姿のケーキたちがたくさん並んでいた。そしてケーキの名前もシンプルで分かりやすい。

いつからか、我が家に「ケーキはひとり2個選んでいい」というルールが出来たので、当たり前のようにふたつに絞る。お互いかぶらないように決めた時点で名前を口にする。結局のところ、相手のケーキも食べるので4種類楽しめるのだ。ショーケースの前で大人ふたりが真剣に悩んでいるのを、お店の方はにこにこして見ていた。

「ショートケーキは買わないと」と私が言うと、お店の方がうんうん、と頷く。ショートケーキを選んだら、パートナーはどっしりとしたチョコレートがいい。組み合わせはとても大事だ。

厳選した4種を買って、お礼を言ってお店を出た。まだ一口も食べていないのに次はあれにしたいこれにしたいと言いながら帰った。熱い紅茶を淹れて、おやつにいただこう。幸せな気持ちで家に着いた。

もちろん、ケーキはとてもおいしかった。サイズが丁度いいのも更によかった。あちこちでお勧めのケーキを買って来たけど、やっと好みのケーキに出会えた気がした。しかも歩いて行けるなんて素晴らしい。今度は誕生日に買わせてもらおう、とふたりで決めた。それくらい気に入っていた。

年が明けて、買い物に出た帰りにお店の横を通るとシャッターが閉まっていた。正月休みだろうかとその時は深く考えなかったが、次に通った時に張り紙に気付いた。その張り紙を見に行くと、閉店のお知らせだった。下ろされたままのシャッターの前で、ふたりでぼんやりとした。

いつまでお店が開いていたのかは分からない。もしかしたら、閉店は決まっていた事かもしれないし、違うのかもしれない。なくなってしまっては何も分からない。どうにもならない気持ちを抱えて、また食べたかったね、と淋しい気持ちのまま帰った。

ケーキ屋さんはたくさんあるけれど、もうあのお店のケーキは食べられないのだと思うと今でも残念な気持ちになる。替わりはない。

ブログを書きながらあの日の写真を見ると、かわいいケーキが4つ並んでいた。ショーケースの中から選ばれたケーキたちだった。ありがとう。とてもおいしかった。

おとなのお酒

20代の頃はお酒を飲まなかった。付き合いで一杯だけ、という機会は何度かあったけど、飲み会に自分から参加するという事もなかった。

お酒は飲めなくても構わないのだと思っていた私は、会社の忘年会というものに初めて参加した。もちろんお酒は飲まなくていいから晩御飯を食べましょうと声をかけてもらい、安心して参加。飲酒しない組で食事をしながら会話を楽しんでいると、カウンター席に見慣れた背中が。

その背中は社員さんではないけれど、お店に来ている販売員さんだった。キビキビ働いていて、困ると助けてくれる50代のIさん。

目が合うといつものように微笑んだので、「そっちいってもいいですか」と仕種で伝えてみた。どうぞ、と隣の席を引いたので、飲み物を持ってカウンターに行ってみた。

カウンター席に座るとお酒のボトルがズラリと並んでいて、何度か行った居酒屋とは雰囲気がまるで違う。おとなの世界だ……と妙に興奮した。

Iさんとお店の話を聞いて、販売の仕事の話をして。その時に私は接客業に向いていないのだという話をくどくどとしたような記憶がある。向いてないと思いながら働いている理由は話している自分にもサッパリ分からなかった。Iさんも困っていたと思う。素面の人間が絡んでいるのもおかしな光景だったかもしれない。

Iさんは忘年会に参加していないので、飲み終えて「そろそろ帰りますよ」と言った。ひとりで飲んでいるところにズカズカと入り込んでいた事に気付いたのはその時で、申し訳ないと謝った。

去り際に「ここにボトルがあるからね。もし、お酒が飲みたくなったら好きな時に飲みにおいでよ」と言われ、おとなだなぁ…と思いながら元の席に帰った。それから

そのお店に行くことはなかったけど、Iさんは今日も寄り道しているのかなぁと店の前を通ると思ったりした。

娘さんと歳が近いから頑張っている姿を見ると応援したくなると言っていた。自分の娘も職場でおとなに見守られて頑張っているのだから、当たり前の感情なのだと。この話をすると「下心がありそ~」と言う娘たちばかりでウンザリしたので、ひとに話をするのはやめにした。何も知らないくせにIさんを馬鹿にしてほしくなかった。

 

あれから10年近く経った。お酒も飲めるようになった。

Iさん、ごちそうしてくれませんかね。